自分だけは見えない

昨日、同友会の
「学びと実践」の会議を
e-doyuで参加状況を
確認すると燕支部から
一人も参加しないのを確認、
支部長としての責任を感じ、
損得の迷いをもちながら、同友会の
「学びと実践」の会議に参加する。
午後三時からだったので、
正直、もし仕事が忙しかったら
当然いけなかったので、
行けたのは暇な証拠でもある。
暇をどう生かすかと考えると
果たしてこれでよかったのかとも思ったりする。
行くと代表理事のHさんが
こうした私のうわついた思いを
見透かすようにグループ討論では、
「高井さんは支部の立場から
言っているが、あなた自身は
どう考えているんですか?」
「高井さんは同友会のどこがいいんですか?」
「それで何をしたいんですか?」
などと言う質問というか
禅問答みたいな攻めにあい、
自分が見えないのが浮き彫りになった。
私自身、同友会は大好きだったが、
支部の会員さん達が
全国的な中央の活動に対する関心を
どうしたら高めて行けるのだろうと考えると、
案も浮かばないので
なるようにしかならないと
なかばあきらめていた。
昨日も、同友会の会議で
損得考えながら、
どうして私は?
なぜここに来ているんだろう?
会社が変になるくらいだったら
支部長もついでに
同友会もやめようか
という思いもあったなか、
「同友会の良さ」を考えると
他の会ではない学びがあるからだ。
今の同友会での
学び方の良い所として、
こうすれば儲かる
こうなると儲かるという
学校や先生のように
特定な他人などから
救ってもらえるような
合理的な答えや教えなど
ないところが良く、
自らが自分を救うために
誰もが先生であり、
なんでも先生にでき、
それって何だろう?
人間尊重って?
人間らしくって?
誇りって?
人間成長って?
経営指針って?
いうように学びそして
実践するなかで、仲間同士で
情報交換したり励ましあったり
しながら共に育つ環境をこの会を通じて
次世代に継承していくという
壮大な目的があるように思える。
時々、同友会は硬くて
嫌なんだという人もいるが
その人が硬いと感じるのは
思考に柔軟性がなくなった証拠だろう。
確かにどこかの会や学校のように
先生から教えてもらった方が
分かりやすい。だが、
苦労せず答えを鵜呑みにする結果、
今の社会問題のように
その答えの裏側の
本質が分からないし、
見えなくなるし、と言う
問題が同時につく。
私の同友会の大きな魅力は、
共に育つとは何か、
共とは何か、
自分を知り、人を知り、
苦しい時こそ
高まろうとする本能に
素直に向き合ってゆくことを
会員の中や大勢で
できるというのが
同友会の魅力だと思う。
生きている限り、幸せを求め、
苦しさを乗り越えようと
誰もがと思っている。
苦しさを乗り越えたとき
人は成長している。
苦しさを乗り越える
ヒントを持った仲間がそこにいる。
そこが同友会の仲間。
今後私は同友会を通じて
何すればいいんだろうか。
4年間、私なりに整理しても、やはり、
自分だけは見えないのが分かった。